「よく思われなくてもいい」と思えた日

暮らしの中の気づき

学校を休む理由は、説明できない

ある日、ラジオから流れてきた不登校に関する相談の声。
子どもが学校に行けなくなり、親が毎朝その欠席を学校に連絡する――それだけでもう、心がすり減ってしまうというエピソードでした。

「今日も休ませます」と電話をかけるたびに、どこかで感じる“申し訳なさ”。
そして、「どうして休むんですか?」という問いに、言葉が詰まる。

その理由が明確であれば、親も子もこんなに苦しまないのに。
学校を休む“正当な理由”なんて、簡単に見つかるわけがない。
それでも親は説明を求められ、理由を探してしまう――
まるで、子どもの「つらさ」に“説明書”がついているかのように。

板挟みの感覚――親もまた苦しんでいる

私にも、似たような経験があります。

子どもが学校に行けなかったある時期、毎朝の欠席連絡がとても重く感じられました。
担任の先生は丁寧に対応してくれましたが、それでも電話をかける前には深呼吸。
なぜ行けないのか。いつまで休むのか。
それを説明できない自分に、無力さや焦りを感じていました。

子どもがつらいことも分かる。
でも親としては、将来のことが不安で、焦ってしまう。
そして学校に対しても、どこかで“取り繕おうとする気持ち”がある。
「ちゃんとした親だと思われたい」「ちゃんと対応しています、と思われたい」――
そういう気持ちが、現実とぶつかって、心をきしませていきました。

「よく思われなくてもいい」と思えたら

ラジオで流れていたアドバイスは、こうでした。

「学校に“よく思われなくてもいい”くらいの気持ちでいたほうが、楽ですよ」

それを聞いたとき、思わず肩の力が抜けるような気がしました。
そうか、そう思っていいんだ、と。

私たちはつい、誰かによく思われようと無意識にがんばってしまう。
でも、自分や家族が限界のときまで、それを続ける必要はないんですよね。

子どもの状態を最優先にしていい。
親も、自分の心を守っていい。
そして、“説明できないこと”をそのままにしていい。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった気がしました。

他人の目に疲れたら、思い出したい

人と関わるなかで、「どう思われるか」が気にならない日はありません。
けれど、すべての人に理解される必要なんて、どこにもないのです。
「よく思われようとしない」という選択肢があるだけで、
心はずいぶん軽くなります。

誰かにとっての「ちゃんと」は、
あなたやあなたの子どもにとっての「ちゃんと」とは違うのだから。

誰かによく思われることよりも、いまの自分や大切な人の気持ちを守ること――それが、ほんとうの「ちゃんと」なのかもしれません。

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