正論は正しい。でも、それだけじゃしんどいよね

そら色コラム

「ちゃんと寝たほうがいいよ」「そんなに気にしなくても大丈夫だよ」

――それが正しいことは、言われなくてもわかってる。
でも、そうできないから困ってるし、そうしたくてもできないから、しんどいんです。

相手に悪気がないのはわかっていても、どこか「突き放された」ような気持ちになるのはなぜなんでしょう。
そして、そんな正論を跳ね返せない自分にも、もやもやしてしまったり。

今回は、そんな「正論がつらく感じる瞬間」にそっと寄り添いながら、
気持ちが少しだけ軽くなるヒントを探してみます。

正論は「正しい」けれど、なぜか苦しい

「正論」は、誰が聞いてもたしかに“正しい”。
体に悪いから寝たほうがいい、落ち込んでも状況は変わらない、だから気にしない方がいい――
そんな言葉は、理屈で考えればごもっともなことばかりです。

でも、それを言われた瞬間、心がふっと閉じてしまうことってありませんか?
まるで、自分の気持ちを「理解されなかった」と感じてしまうような、そんな感覚。

たとえば、つらい思いを誰かに打ち明けたときに返ってきた
「でも、それってあなたにも非があるんじゃない?」という言葉。
たしかにその通りかもしれません。でも、今ほしかったのは“正しさ”じゃなくて、
「大変だったね」と、ひとこと寄り添ってくれる気持ちだったのかもしれません。

正論が悪いわけではない。けれど、心が弱っているときほど、それは時に「追い打ち」にもなってしまうのです。

言った側に悪気はない。でも、受け取る側には刺さる

「気にしすぎだよ」「深く考えない方がいいよ」「前を向こう」

こういった言葉たちは、多くの場合“善意”から発せられます。
相手を励ましたい、元気づけたい、なんとか前向きになってほしい――
そんな気持ちが込められていることも、もちろんわかります。

でも、その善意が届くとは限らないのが、言葉の難しさです。

たとえば、深く落ち込んでいるとき、「前を向こうよ」と言われたら、
「前なんか向けないから困ってるのに」と、さらに孤独感を強めてしまうこともあります。
“できない自分”が強調されてしまうような感覚になり、
「それができたら苦労しないよ」と、心の中でつぶやいてしまう――

言葉は、時にナイフのように鋭く心に刺さることがあります。
言った人に悪気がなかったとしても、受け取る側がつらく感じてしまえば、それは“痛み”として残ります。

わかってる。だからこそ、しんどい

「ちゃんと休んでね」
「無理しないで」
「食べた方がいいよ」
「夜はしっかり寝た方がいいよ」

これらは、誰かに言われなくても、自分が一番よくわかっていること。
でも、その「正しさ」が、心に余裕がないときにはプレッシャーになってしまうことがあります。

たとえば、眠れない夜に「早く寝なきゃ」と思えば思うほど目が冴えてしまったり、
食欲がないのに「食べたほうがいい」と言われると、ますます喉を通らなくなったり。

「わかってるよ、そんなこと」
「でも、できないから困ってるんだよ」
そんな心の叫びを抱えているときに、“正論”はときに無力で、
むしろ自分を責める材料になってしまうことさえあります。

誰も悪くないのに、つらさだけが残る――
そんなすれ違いは、きっと誰にでもある「あるある」ではないでしょうか。

求めているのは「正しさ」じゃなく「寄り添い」

困っているとき、つらいとき、本当にほしいのは「正しいアドバイス」ではなく、
「わかるよ」「そっか、それはしんどいね」という共感のひとこと。

たとえ解決にならなくても、
「そのままでいていいよ」と言ってもらえるだけで、ふっと気が楽になることもあります。

大切なのは、正しさよりも、気持ちによりそう姿勢。
たとえば「気にしないで」ではなく、「気になっちゃうよね」と言ってもらえたら、
それだけで救われることがあります。

言葉って不思議です。
「アドバイス」ではなく「共感」をもらえるだけで、
なぜか、ちょっと元気になれるのです。

まとめ:「わかってるよ」って気持ちの奥にあるもの

「正論は要らない」と思ってしまうとき。
それは、相手の言葉が「正しいかどうか」ではなく、自分の心が「今どんな状態か」によるものかもしれません。

つらいときほど、正論が突き刺さる。
できない自分を、また責めたくなる。
そんなときに本当にほしいのは、「解決策」じゃなく「そのままの自分を認めてもらえる安心感」なのかもしれません。

だからこそ、誰かの悩みに触れるとき、自分自身のつらさに向き合うとき、
正論よりも、まず「気持ちに耳を傾ける」ことを大事にしたい。
そんなふうに思えたら、自分にも、人にも、もう少し優しくなれる気がします。

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