しゃべらないのは、何も感じていないからじゃない――“無口”な自分を受け入れるまで

心を整える時間

無口になったのは・・・

昔から「無口な人」と言われることがありました。
でも、子どもの頃からそうだったわけではありません。むしろ、何気なく話すことも、人と接することも、そんなに苦ではなかった気がします。

けれど、ある時からだんだんと、言葉を発する前にすごく考えるようになりました。

「これを言ったら、相手はどう思うだろう」
「誤解されるかもしれない」
「傷つけてしまったらどうしよう」
「怒らせたら厄介だな」

そんなふうに考えすぎてしまって、言いたいことがあっても飲み込んでしまう。
その結果、「言わない」という選択肢ばかりが増えていきました。

感情があふれたとき、言葉が出た

そんな私が、かつて実家に帰省したときのことです。
たまにしか帰らないのに、父と姉が激しく口論をしていました。

はじめは何も言えずにいたのですが、だんだんと胸の内がざわつき、ついにはこう叫んでいました。

「たまに帰ってきたのに、喧嘩なんてするなよ!」

自分でも驚くほどの大きな声でした。
普段は無口でおとなしい私が発したその一言に、父も姉も、一瞬言葉を失ったように黙りました。

それは怒りでもあり、悲しみでもあり、ただ「ここにいてほしい空気じゃない」と感じた私なりの精いっぱいの声だったのかもしれません。

無口な人の言葉は、重い

その出来事があってから、「無口」って何だろうと考えるようになりました。

無口な人は、言いたくないから黙っているのではなく、
たぶん、言葉をとても大事にしているからこそ、慎重になる。
誰かを傷つけたくない、嫌な思いをさせたくない。
そんなやさしさの裏返しでもあるのです。

でも、ときにその“やさしさ”が、自分自身を追い詰めてしまうこともある。
言いたかったのに、言えなかった。
助けたかったのに、動けなかった。
そんな後悔も、きっとたくさんある。

「言わない」ではなく、「言葉を選ぶ人」でいたい

私はきっとこれからも、饒舌になることはないと思います。
でも、黙っていることで伝わる思いもあるし、
一言だけで場が変わるような、そんな言葉を持っていたいとも思います。

「無口であること」は、悪いことじゃない。
むしろ、自分の言葉をどう扱いたいか、ちゃんと考えている証拠だと思っています。

だからこれからも、言葉を選びながら、
でも「ここぞ」というときには、
ちゃんと自分の声を出していけたらと思います。

まとめにかえて

無口な自分を、責めなくていい。
声に出せなかった言葉を、心の中で何度も繰り返した自分を、肯定していい。

必要なときに、必要な言葉を届けられるように。
静かな強さを、少しずつ育てていけたらと思っています。

なんて、カッコいいことを書きましたが、面倒なことはゴメンなんです。

何か言葉を求められた”その時言えばいい”、ぐらいの気持ちでいようと思います。

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