急かされない光の中で
休日の朝、目覚ましに起こされることなく目を覚ます。
カーテンの隙間から差し込む光が、床の上にまっすぐな線を描いている。
その光を見つめながら、ふと気づく。
今日は誰にも急かされない、自分だけの静かな時間なのだと。
胸の奥に、ゆっくりと安堵の気配が広がっていく。
かつて土曜の朝といえば、決まって実家へ向かう日だった。
早朝から鳴る電話に、飛び起きるような緊張もあった。
今はもう、どちらも必要なくなった――
それでも、ふとした瞬間に心の奥がざわつく。
手放したはずの場所から、まだ何かを求める声が聞こえてくる気がするのだ。
二つの居場所で、同じ重さ
勤めていた会社では、社長の要求レベルが高く、
どんな質問にもその場で答えることが求められた。
休みの日でもかかってくる電話は、心の休まる余地を奪っていった。
「信頼されている証拠」と言われれば、そうなのかもしれない。
けれど、私はただ、その信頼に押しつぶされそうだった。
自分のペースは乱れ、気づけばいつも誰かの顔色ばかりを気にしていた。
その感覚は、実家でも変わらなかった。
会社勤めのかたわら、家業の農業も手伝っていた。
無口な父は、自分の思い通りにならないと機嫌を悪くする人だった。
理由を言葉にしてくれることはなかったから、
私はただ、父の気配や表情を読み取り、
先回りして動くことで、なんとか空気を保とうとしていた。
社長も、父も、その機嫌はまるで私の行動次第で決まるように感じていた。
けれど今振り返れば、それは私の思い込みだったのかもしれない。
本当は、私の気持ちに気づこうなんて思っていなかったのだろう。
ただ、自分の思い通りにしたかっただけ。
私はいつの間にか、彼らの機嫌に支配されることに慣れてしまっていた。
場所が違っても、私はずっと、誰かの不機嫌に怯えながら生きていたのかもしれない。
解放は、静かな対話から
今の私は、もう誰かの期待にすぐ応える必要もないし、
誰かの機嫌に左右される必要もない。
物理的な距離は、もうとっくにできている。
けれど、心のざわつきは、まだ時々顔を出す。
もしかしたらそれは、あの頃の自分の声なのかもしれない。
ちゃんと向き合えていなかった痛みが、まだそこにある。
だからこそ、時折その影がそっと忍び寄ってくるのも、自然なことなのだろう。
無理に忘れようとしなくていい。
ただ、その影を、少し離れたところから見つめること。
そして、「もう行かなくていいんだ」と
安堵している今の自分の気持ちに、ちゃんと気づいてあげること。
自分のリズムで過ごしていく
誰の顔色も気にせず、自分の心に正直に生きる時間。
それはまだ不器用で、たどたどしいかもしれないけれど、
確かに私の中に芽生えてきている。
そんな「そら色のじかん」を、少しずつ、丁寧に増やしていけたらいい。
心の荷物をそっと置ける場所を、自分の中につくっていくように。