ある日の帰り道、ふと「疲れたなぁ」とつぶやいたときに、自分で「あれ?」と思いました。
たしかに体は重かったけれど、それよりも気持ちが沈んでいて、何をする気にもなれなかった。
あのとき、本当は「疲れた」じゃなくて、「しんどい」だったのかもしれない、って。
同じように“エネルギーが足りない状態”を表す言葉でも、「しんどい」と「疲れた」は少し違う。
いや、実際に使い分けてることもあるし、伝わる雰囲気もまるで違う気がする。
そんな違いを、自分の体験や感覚を通して、ことばにしてみようと思ったのが、この記事のきっかけです。
「疲れた」と言えるときは、まだ余裕がある気がする
「疲れた」という言葉を口にする瞬間は、意外と日常の中にたくさんあります。
たとえば仕事を終えて帰宅したとき、何時間も立ちっぱなしだったとき、家事を一気に片づけたあとのソファで。
そんなときに「ふう…疲れたな」と言うと、なんとなく気持ちが少し軽くなったりします。
自分の中では、「疲れた」はどちらかというと“終わり”の言葉。
一段落ついたとか、やるべきことをやり終えたあとの、充実感まじりの“休憩宣言”のような感覚があります。
もちろん肉体的にはきついこともあるけれど、それでも「疲れた」と言えるときは、まだ笑う余裕があったり、誰かに話す元気が残っていたりします。
「疲れた」は、“今はしんどくても、休めば回復する”という見通しがある言葉なのかもしれません。
だから私は、「疲れた」と言っているときの自分には、まだどこか自分を保てている感覚があるなと思うのです。
「しんどい」と口にするときは、気持ちが奥のほうで重たくなっている
一方で、「しんどい」という言葉が出てくるときは、なんだかもっと深いところで疲れている感じがします。
それは体というよりも、心や頭の奥の方が重たいとき。
やらなきゃいけないことがあるのに手がつけられないとき、人と話す元気もないとき、自分に余裕がないと感じるとき…。
「しんどい」は、まだ終わっていない状態の中にいる自分の声のような気がします。
やることは山積み、でも気持ちが追いつかない。何かを抱えながらも、それをうまく処理できなくて、どうしようもなく煮詰まっている感じ。
私の場合、「しんどい」とつぶやくときは、助けてほしいとも言えないような気持ちになっていることが多いです。
誰かに伝えたくても、うまく説明できなくて、「なんか、もう…しんどい」って、ぽつりと漏れるだけ。
だからこの言葉には、“今すぐには立て直せない”という無力さも含まれている気がします。
「疲れた」は立ち止まって一息つく言葉。
でも「しんどい」は、立ち止まったまま動けずにいる、そんな状態を表しているのかもしれません。
体の疲れと心のしんどさは、似て非なるもの
「疲れた」と「しんどい」は、どちらも“エネルギーが足りない”という点では似ているけれど、私の中ではそれが「どこにたまっているか」がまったく違うと感じます。
「疲れた」は、体のどこかにハッキリとした原因があることが多いです。
たとえば長時間歩いたとか、重いものを運んだとか、睡眠不足とか。
そういうときは、寝れば回復する、食べれば元気が出る、少し休めば取り戻せるという“手当ての方法”がイメージしやすい。
でも「しんどい」は、原因がぼんやりしている。
何に疲れているのかもよくわからないし、何をしたら回復できるかもよくわからない。
体よりも、心や思考がすり減っている感覚に近くて、眠ってもスッキリせず、誰かと話してもモヤモヤが晴れないこともあります。
たとえば、職場で空気を読みすぎてしまった日、人の顔色ばかり気にしていた日、気づかないうちに“頑張らなきゃ”を積み重ねていた日。
そんな日は、家に帰ってから「しんどい…」とだけつぶやいて、ソファに沈みこむ自分がいます。
そして、この「しんどさ」は、自分でも気づきにくいまま蓄積していることが多い。
だからこそ、「疲れた」とは違う、“見えない疲れ”に向き合う時間が必要なんだと思います。
言葉にしてはじめて、自分の状態に気づけることもある
「疲れた」「しんどい」――
これらの言葉は、ただの感想やつぶやきのようでいて、**実はとても大切な“内側からのサイン”**だと思います。
あるとき、なんとなくモヤモヤした気持ちでいた日に、ぽつりと「なんか…しんどいな」と声に出してみたことがありました。
すると不思議なことに、それを口にした瞬間、自分の中で「これはただの疲れじゃなかったんだ」と気づけたんです。
言葉にすることで、気持ちの“所在”が見えてくることがある。
そう実感した体験でした。
反対に、忙しさに追われているときほど、「しんどい」と感じていてもその気持ちに気づかず、「なんかダルいな」「眠いだけかも」と自分をごまかしてしまうこともあります。
そのまま走り続けて、ある日急に動けなくなる――そんなことも、実際にありました。
だから私は最近、「疲れた」と「しんどい」を自分なりに言い分けて使うようにしています。
それが、自分の状態を自分で把握するための、小さな心のメモになるからです。
言葉にするって、それだけで“整理”になるし、“許し”にもなる。
たとえば、「今日、しんどかったな」と一言ノートに書くだけでも、「あぁ、よく頑張ったな」と思えることがあるのです。
まとめ:どちらも“悪”ではない。自分の今にやさしく気づくために
「疲れた」と「しんどい」。
どちらも、エネルギーが減っていることを表す言葉ですが、そのニュアンスや深さには違いがあります。
「疲れた」と言えるときは、まだどこかに余裕があって、「ひと休みすれば大丈夫」と自分を信じられているようなとき。
「しんどい」と口にするときは、心や気持ちがすり減っていて、「今はもう、何もできない」と感じてしまうとき。
でも、どちらも悪いことではないと思います。
どちらも、自分が今どういう状態なのかを伝えてくれる、大切なサインです。
だから、「こんなことで疲れてるなんて情けない」とか、「しんどいなんて甘えてるのかも」とか、そうやって自分を責める必要なんてないと思うんです。
むしろ、そう感じている自分に気づけたときこそ、自分にやさしくするタイミング。
「今日は疲れてるな」「今はしんどいかも」
そんなふうに、自分の中の声に耳をすませて、静かに寄り添う時間を持てたら、それだけでも少し前に進める気がします。
“しんどい”も“疲れた”も、言葉にしていい。
そして、それを誰かに伝えてもいい。
そう思えたときから、きっと心のなかが少しだけ軽くなるはずです。