数年前のことです。私は当時、仕事の一環として自作のニュースペーパーを作り、地域の顧客の方々に配布していました。
内容は、お店の紹介やちょっとしたコラムなど。自分なりに一生懸命作っていたものです。
ある日、ある人からこう言われました。
「あれ、よくないぞって“みんな”言ってるぞ」
え? と思いました。
まさかそんなふうに受け取られていたとは思っていなかったので、正直ショックでした。
でも、もっと引っかかったのは「みんなって、誰?」という言葉でした。
「みんな」という不思議な存在
その人が言った「みんな」は、どこか漠然としています。
何人? 誰? 名前は? 本当に?
そう聞きたくなるような、あいまいで、でも重たい響きがありました。
「みんながそう言ってる」と言われると、まるで地域全体や大多数が否定しているように聞こえます。
でも、私のニュースペーパーを「面白かったよ」と言ってくれた人も、確かにいたんです。
だからこそ、余計に混乱しました。
いったいどちらが“本当の声”なんだろう? と。
「みんな」は、ほんとうに“みんな”なのか
冷静に考えてみると、「みんな」という言葉は、とても都合よく使える言葉です。
- 自分の意見を正当化したいとき
- 相手にプレッシャーをかけたいとき
- 自信がないときに“多数派”を装いたいとき
そういった場面で、「みんな」が登場します。
でも実際には、“みんな”の中に、私のことを応援してくれている人だって含まれているはずです。
それなのに、その“肯定的な声”は省略されてしまう。
とてもアンフェアな、でも日常によくある現象なのだと、あとから気づきました。
「みんな」と言われたときに、問いかけてみる
その体験以来、私は誰かから「みんながそう言ってる」と言われたとき、こんなふうに考えるようになりました。
- その“みんな”は何人?
- その人たちは、実際にどういう言葉を使った?
- 自分が直接それを聞いたわけではないよね?
そう問いかけることで、少しだけ心が軽くなります。
実態のわからない“声”におびえるのではなく、 今、目の前で対話できている“ひとり”に向き合う。
それが、自分を守る手段になることもあるのです。
「みんな」という言葉に振り回されないために
誰かの一言に傷ついたり、不安になったりするのは、人間らしい反応です。
でも、言葉はときに曖昧で、意図的に使われることもあります。
「みんな」という言葉は、その典型かもしれません。
だからこそ、「みんなって誰?」と自分に問い返してみる。
あるいは、「そう思ってくれる人もいるんだよね」と別の声にも目を向けてみる。
そういう小さな気づきが、自分を少しずつ守ってくれるように思います。
誰かの「みんな」に、自分のすべてを委ねなくてもいい。
自分の感じたことや信じたことを、丁寧に扱っていきたいと思うようになりました。